こんにちは。
インテリアデザイナーの小林由梨奈です。
すっかりあたたかく春めいてきましたね🌸
この間、ひときわ暖かく晴れた気持ちのよい日に、『ヒグチユウコ展』と『エゴン・シーレ展』に行ってきました🤗
2人とも、まったく異なる魅力を持った芸術家。
開催地も六本木と上野で、全く異なるタイプの人たちの集まるそれぞれ独特な空気を持つ街。
浮き立つ春の風の香りに誘われて、私の人生の中でも鮮烈な思い出に残る1日となりました💫
『ヒグチユウコ展』はこちらでレポートしています🤗
エゴン・シーレという人
彼のことをほとんど知らずに、なんとなく色使いと彼自身の雰囲気に惹かれて訪れてみた『エゴン・シーレ展』。
作品を見るたび、彼のことを知るたびに、じわじわと心と身体に衝撃が広がるような感じで、すべてを見終わる頃にはすっかり沼落ちしてました💓
それで冒頭の写真にあるように、図録と大量のポストカードを購入しています笑。
美術館で図録を購入したのはたぶん生まれて初めて。
さらに会場限定で受注していた複製版画。
たぶんこの3点だったと思う。
閉館ギリギリまでいて、買うかどうか迷いがあったので一旦買わなかったけど。
やっぱり欲しいので、会期中にもう一度行って発注してこようと思っています笑。
チケット買って展示見た後じゃないと入れないショップなので、もう一度同じ展示を見ることになりますね笑。これからみに行く方がいらしたら、ぜひ私の分の発注をお願いしたい気持ちです🤣(こっそりご連絡ください💓)
私はたぶん、早逝の天才画家が異常に好きなんだと思います。。
帰宅してからも余韻が抜けず、破茶滅茶な彼の生き様を長い時間かけて頭に巡らせていました🤤
エゴンシーレとクリムト
エゴンシーレは早熟の天才で、史上最年少の16歳でウィーン美術アカデミーに入学し、その翌年にクリムトに出会いました。
エゴンシーレはクリムトととても仲良しでした。
親子ほど歳が離れていて、クリムトがエゴンシーレの才能を見出して引っ張り上げたところから関係は始まったのですが、師匠と弟子というよりも、お互いに尊敬し合う親友のような関係だったそうです。
2人はそれぞれインフルエンザとスペイン風邪で、同じ年に亡くなっています。
きっと、一つの時代が終わった感じだったでしょうね。
彼の初期の頃の作品は、クリムトの影響を受けています。
撮影できなかったのでこれはポストカードですが、左が18歳の頃ウィーン美術アカデミーの学生時代に描いた「装飾的な背景の前に置かれた様式化された花」。クリムトに出会った翌年の作品です。
クリムトが風景画に好んで用いた正方形のカンヴァスを使っていること、そして平面的な背景の描写にもクリムトの影響が見てとれます。
金や銀の顔料を使って、油彩の色合いや表情とコントラストをつけて煌めかせているところも、クリムトみを感じますね。
右が20歳の時の「菊」。
当時流行したジャポニズムの形式で描かれた作品。
金をふんだんに使ったクリムトに対して、初期の頃のエゴンシーレはその影響を強く受けた作風から、「銀のクリムト」と呼ばれていたそうです。
今回の展示は、クリムトの他、同じく早逝のリヒャルト・ゲルストル(愛に溺れて25歳で自殺😢)、コロマン・モーザーなど、エゴンシーレと関わりのあった画家の作品もたくさん展示されていて、それぞれとの関わりをストーリー仕立てで見せてくれる、とっても見応えのあるものでした。
エゴンシーレと女、性
クリムトの影響を強く受けた若き日のエゴンシーレですが、彼の作風はそのあとまったく変わっていって、あのみんながよく知っている独特のものになっていきます。
エゴンシーレには4つ歳下の恋人ヴァリがいて、彼女をモデルにたくさんの作品を描きました。
ヴァリは最初クリムトのミューズであって、クリムトが「自分より君の絵に合うと思う」と言ってエゴンシーレに紹介しました。
2人の天才に積極的に題材にされる女性。すごい魅力的な人ですよね。
しかも彼女はミューズとして彼に多くのインスピレーションを与えただけでなく、彼が絵を描くことのできる環境を整えることに尽力したそうです。
それからエゴンシーレは21歳の時、ウィーンが嫌になり、ヴァリとともにボヘミアの森に移住します。
彼はボヘミア地方の、彼の母親の故郷であるクルマウという街でしばらく創作活動を続けます。
その時に描いた風景画が展示されていて、そのあたりだけ撮影が可能でした。
しかしクルマウは閉鎖的な街で、2人は地元の人たちに歓迎されませんでした。
シーレの家には娼婦などが出入りしてヌードモデルをやっていたので、そういうのが受け入れられなかったみたいです。
現代の、田舎移住した都会の人に起こる問題と似たような感じですね😢
その後ウィーンに戻ってきた2人は、郊外のノイレングバッハという街にアトリエを開きました。しかしそこで少女を誘い込んで絵のモデルにしたり、庭で裸婦のデッサンを描くなどしたために、また街を追い出されます😢
そしてノイレングバッハ事件が起こります。
1912年4月、14歳の少女がシーレの家で一夜を明かしたと警察に告げ、警察が逮捕の為に踏み込むと大量の猥褻な絵が見つかった。その後、シーレは24日間にわたって拘留されている。シーレ自身の手記によれば彼は家出少女に宿を貸しただけで、何らやましいことはしていないと書き残している。しかし裁判所はシーレの絵を猥褻物として押収し、そればかりか裁判官の1人は目の前にあった蝋燭で絵を燃やすという不要な挑発行為まで行ったという。
Wikipedia
エゴンシーレはその時、ほんとうに自分は何ら悪いことはしていないので、何を咎められているのかピュアにナチュラルに意味が分かっていない様子だったそうです。
その後エゴンシーレはまたウィーンに戻ってきて、安定(🤣?!)を求めて結婚します。
出自的にヴァリは結婚相手には相応しくないとして、向かいの家に住んでいる自分と同じ中産階級の2人の姉妹と関係を持ち、妹のエーディトが残ったので妹と結婚しました。
しかし未練がましくも、ヴァリには「ごめんね。でも夏にはヴァカンスに行こう!」と伝えたそうで笑
これにヴァリはノーを突きつけて彼の前から立ち去り、第一次世界大戦の従軍看護婦としてクロアチアに渡り、そこで亡くなっています。
そしてその翌年の1917年、妊娠中のエーディトをスペイン風邪で亡くし、その3日後に自身もスペイン風邪で亡くなりました。
亡くなる時の自分の姿も、自分で撮影して残しています。
最期まで、自分に向き合い表現し続ける人だったんですね。
エゴンシーレは15歳の時に父親を梅毒で亡くし、母親も罹患していて、兄弟4人も同じ病気で亡くしたそう。
生と死と性への、いろいろな重い情念を伴った強い執着を感じます。
タブーとされていることをあえて強調して描いた彼の作品は、没後100年経った今でも十分に強烈でショッキングだけど、
でも世の中が水瓶座的に、天王星的に拓けてきた今になって、ようやく時代が追いついたような感じなのかもしれませんね。
今になって、特に若い人たちから強い憧れを持って受け入れられてるって、レオポルド美術館(エゴンシーレの作品を最も多く収蔵しているウィーンの美術館)の方がインタビュー映像で言ってました。
彼の半生を描いた映画のタイトルにもなっている作品、「死と乙女」。
「エリザベート」を彷彿する。
「愛と死の輪舞」。トートとエリザベートみたい。
100年ちょっと前のウィーンの出来事やそこにいた人たちは、すっごく私の感性にブチ刺さるようです💓
大好きな街。
エゴンシーレを知った今、また行きたい。
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